広島三朗さんについて

世界第2の高峰 K2登頂の記録映画DVD 『白き氷河の果てに』を観て

~山男と映画が結んだ不思議な縁~

第10回1959卒 古家(こが)秀紀
町高同窓会副会長、三井物産㈱社友

はじめに:

81才になった自分の過去を振り返ると、様々な処で「不思議な見えない糸」によって様々の方々と、貴重な人生の出遭いを体験した。その一つに、町高の後輩二人が私と夫々縦の糸で結ばれていただけではなく、その二人もお互いに出会うことはなかったものの別の不思議な糸によって町高の先輩・後輩として結ばれていたことが判って、大いに驚いた顛末を書きたいと思う。

存命だったら世界で著名な登山家になっていた広島三朗(みつお)君(第13回卒):

広島君(1962年卒)は、大学卒業後、神奈川県立高校の教師になり、1970年頃からヒマラヤに魅せられてパキスタンに通い始めて、遂に1977年の夏、世界第2の高峰K2の登頂に成功した山男だった。K2の高さは海抜8,611m、ヒマラヤの最北端に位置して、広島君達の登山隊が成功する迄はアメリカ隊を始めとして数度にわたる登山隊が登頂を試みたが全てが悲劇に終わり、登頂に成功したのはわずかに1954年のイタリア隊だけしかありませんでした。K2登山隊が使った費用は約1億円。広島君達が駆けずり回って寄付金を集めたお金だったそうです。実に残念だったのは、彼が1997年にカラコルムのスキルブルム峰(7,360m)を征服した後の下山途中に、ベースキャンプで就寝中に突然氷河が崩壊、高圧の爆風が発生し、テントが襲われて逝去したことです。享年54才、その時6人が巻き込まれて他界しました。広島君が存命中にパキスタンへ渡航した回数は、計57回だったと教え子だった登山仲間の1人が回顧しています。

若し広島君が存命していたならば、町高の後輩達に、特に在校生に対して、世界第2の高峰K2の山頂に立った時の感激を交えて苦労談や成功談、特に彼の生き方や後輩達への教訓などを直接語ってもらうことが出来た筈です。彼が他界してしまった為にそれが不可能になってしまいました。彼の成功談は、きっと町高の後輩達に力強い励みと希望を与え、彼等の挑戦心を掻き立てることに役立った筈だと思うと残念でなりません。

実は、私自身広島君とは彼が町高を卒業した直後から同窓会で、先輩・後輩として一緒に活動しました。しかし私が海外勤務になったことより、関係が途切れてお互いに忘れかけていた時の1971年に、今のバングラデッシュ、当時の東パキスタン州ダッカで偶然彼に再会したのです。私はその時たまたま会社の用件があって、市内のホテルに立寄ったのですが、ロビーでは日本人らしき一行が一団になって、チェックインの手続きをしていました。姿・恰好から一行が日本人らしかったので私にとっては大変懐かしくて(当時日本では外国に行くのに制限があり、外国に行く日本人の数は少なく、羽田空港では「万歳」、「万歳」と大歓声を上げて見送るのがしきたりでした)、離れた所から一行を眺めていたら、その中の一人の後ろ姿と頭の形が何となく私には見覚えがある人だったので、そーっと顔が見える位置に回り込んで見たところ、広島三朗君だったのです。実に、驚きました。最初は信じられませんでしたが、実際に広島君だったので、私は、大声で「広島君!」と呼びかけました。彼は最初、誰から呼ばれたか判らず、しかし、呼んでいるのが私だと分った瞬間、彼も大変驚いて二人で感激し、抱き合って喜びあいました。外国で予告なしに、偶然、突発的に再会したのです。二人にとっては夢みたいな再会でした。

出会えた理由が判りました。広島君達登山隊員一行がヒマラヤに行くべく、西パキスタン州カラチ行の飛行機に乗っていたらベンガル湾上空で超大型のサイクローンに遭遇して、危険を察知した飛行機がダッカに緊急着陸したのでした。乗客達はダッカ市内のホテルに一泊して、翌朝カラチに向かって飛ぶことになったのです。それを知った私は即座に広島君達一行が我社宅に来て夕食を共にすることを提案。皆と話し合ってもらった結果、全員が同意。即刻、善は急げと荷物は全てホテルに預けた上で、全員が私の車とタクシーに分乗して社宅に来てもらいました。計12~3名位の人数だったと思います。社宅の現地人コックは日本食も作ることが出来たので、大宴会をしました。お酒も沢山飲んで旅の前途を祝いました。約50年前のことだったのに、今でも登山隊の全員が大喜びされたことを思い出します。

この記録映画の監督が創設に関係した会社で、現在活躍中のもう一人の同窓生、宮澤京子さん(第36回卒)に出会ったこと:

特に一昨年の11月に、もう一本の「見えない糸」によって、町高卒業生の宮澤京子さん(1985卒)のお母さんと或る会合の席で知り合ったお陰で、広島君がK2に登頂した時の記録映画(題名「白き氷河の果てに」) のDVDを入手することが出来て、その映画を観た結果、広島君の生前に、私が同君と何回か会ってお酒を飲みながら直接聞いたK2登頂の話しは単純すぎて、内容に苦労話や登頂に成功した時の感激など偉業部分が完全に抜け落ちていたことを覚ったのです。

DVDを通じて、私は広島君と登山隊の一人一人のメンバーが如何に苦労を重ね、努力をしたかを詳しく見聞することができました。その結果、改めて広島三朗君の偉大さを知り、同窓会としては大変貴重で重要な同窓生を失ったことを実感するに至りました。若し同君が生きていたならば、世界で著名な登山家になり、今でも高山を巡り大活躍をしている人物になったに違いないと思うのです。

私が映画「白き氷河の果てに」のDVDを入手することが出来たのは、前述の通り市内の或る会合で町高卒のお嬢さんを持つご婦人に出会ったことによるものでした。その方のお嬢さんが所属しているドキュメンタリー映像制作会社の創業者の実兄、門田龍太郎監督が広島君のK2登頂遠征隊の撮影隊の監督として登山の進行状況を記録画像として撮影していたのでした。そして帰国後、門田監督が制作したのが映画「白き氷河の果てに」でした。即ち、宮澤さんが勤務する会社の創立に関係した門田監督が撮影隊を率いて広島君達と苦行を共にした仲間だったのです。

驚いたのは、私がご婦人にお嬢様の電話番号を教えて頂き、初めて彼女に電話をした時でした。話題に町高の卒業生で有名になった方数名の名前を挙げ、その一人としてK2に登頂した広島三朗君の名前を出した時でした。宮澤さんが絶句したように「エッ、広島さんは町高卒ですか?」と言われたので、当方がビックリして「そうです。」と答えたら、自分の会社の創業者の実兄が映画監督で、昔、広島さんの登山隊に同行し記録映画を製作した方だったと。製作は1978年に行われて、現在は彼女の会社でそのDVDを販売しているが、「広島さんが町高卒だったことは全く知らなかった」との言葉にこちらは再び驚くと共に、それまで、私自身もその映画が製作されていたことを全然知らなかったので、その場で即座に、彼女にDVDを買いたいと注文したのでした。

結び:

広島君とは、1971年にダッカで偶然再会した経緯もあり、私が帰国した後、彼も当時は町田に住んでいたので市内の居酒屋で2~3回団欒したことがありました。その時に分かったことは、広島君が教師として教えていた神奈川県立津久井高校に、私の大学時代の後輩が英語教師として勤め、二人は同僚だったことより、飲むとその話題も重なって尚一層我々二人の関係は親密になりました。その後私自身も、再び別の国に駐在することになり、広島君もまた居住地が町田より藤沢市に移住したことより、再会の機会が乏しくなり、やがて彼があの忌まわしい雪崩事故に遭って他界してしまった為に、再び会う機会は永遠になくなってしまいました。K2征服の話しも記憶に薄れ、今回観たDVDを通じて初めて私はK2登山隊の遠征が如何に過酷なものであったのかを知り、ますます広島君の偉業を実感することが出来たのでした。若し彼が存命だったならば町高にとっても、同窓会にとっても広告塔の一本になったに違いないと思うと大変残念でなりません。

註:映画は1978年に、K2日本人初登頂 劇場用長編記録映画として北斗映画プロダクションが企画・制作、社団法人日本山岳協会が制作に協力して完成しました。