同窓会からのお知らせ

平成22年度 町田高校校内講演会

恒例の町高校内講演会は、ここ数年同窓会が講師を紹介してきました。
今年は坂元会長推薦により読売新聞社特別編集委員の橋本五郎さんに依頼し、
快くお引き受け頂きました。

10月4日講演会当日

校長室での橋本さん

橋本さんは薄い赤のジャケットをお召しになり、颯爽と学校に到着されました。
校長室で御礼を申し上げた時の優しげなまなざしがとても印象的でした。

体育館での講演は一時間。橋本さんは、終始とても良く通るお声でゆっくりとお話しして下さいました。
大病をなさったとは思えないほどで、陰でどれだけの努力をしてこられたのだろうか、と終わった時に慮られました。

お話しの中にはいくつかの印象深いフレーズがありました。
思春期の、それからの橋本さんの人生観の基礎になったと思われる秋田高校の校長先生のお言葉や、9年前に大病をなさった時の、自暴自棄になるところを救って下さった主治医の助言がそれですが、多分なににも代え難い「人生の師」であり、橋本さんの価値観の全てを司っていらっしゃるのは亡くなられたお母様で、お母様の数々のお言葉やなさり方が何より印象に残りました。
最後に「おてんとうさんが見ている・・という言葉があります。私にとっての『おてんとうさん』はお袋です」と橋本さん。私は目頭が熱くなりました。
お母様はきっと天国で喜んでいらっしゃることでしょう。
何故なら、これが母親にとって最高の賛辞だからです。

私が死に掛けたのは40歳の時ですが、生きる勇気を与えてくれたのは息子たちでした。
はたして私は彼らの「おてんとうさん」になっているのだろうか?と考えながら家路に着きました。

最後まで真摯に講演を聞いていた町高生たち。私たちはいつも彼らの今後を憂い、少しでもお役に立てれば、という思いで講師をお招きしています。今年の講師橋本さんのお話しも、きっと彼らの心に響いていることでしょう。   (取材:三五靖子)

<橋本五郎さんプロフィール>

・ 昭和21年12月生まれ
・ 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
・  読売新聞社入社後、浜松支局・本社社会部・政治部・政治部次長・論説委員・政治部部長・編集局次長を経て、平成11年日本テレビ「ズームイン朝」にキャスターとして出演(現在も毎週月・火曜日に出演)
・  その後、読売新聞社編集委員・東京大学経営協議会委員・NHK中央番組審議会委員を歴任し、現在は読売新聞社特別編集委員。また公安審査委員会委員も務める。

(記事・写真・講演内容の掲載につきましては橋本さんご本人の了解を得ております)

*講演内容*

これまで色々な師に巡り会いましたが、今日はその中でも心に残る三人の師について話したいと思います。

私は秋田県の秋田高校に入学しましたが、二年生の時に校長先生がかわりました。校長先生はこう仰いました。「君たちはいつどこで誰にこう聞かれても、直ちに答えられる人間にならなければならない」それは『汝、何の為にそこにありや』と聞かれたときに直ちに答えられる人間になってほしい、ということでした。この問いは非常に難しいです。今、それを聞かれたら「同窓会の会長さんに頼まれたから」とはいえない。小田急線に乗り、町田高校に来て、皆さんに何を語り訴えたいのか、を答えられなければいけない。多分それは自分がどう生きようとしているのかということでしょう。

ずっと後になって知りましたが、校長先生は職員会議で「教育とは青少年の足を洗う事である」と教職員に言っていたそうです。それは自分が身を低くして相手の立場に立って謙虚であれ、という事だと思います。そして私は思い浮かぶひとつの光景があります。皇后陛下が被災地に慰問に行かれたときのことです。必ず体育館で床に膝をついて被災者の方に語りかけて激励していらっしゃる姿です。あの姿だと、私は思います。

昭和40年に高校を卒業しましたが、一生「汝、何の為にそこにありや」という言葉が心から消える事はないでしょう。今でもいつも自分に問いかけています。

私は9年前に胃がんで胃の全摘手術を行いました。腸閉塞を5回患い16キロも体重が落ち、初めて死に直面しました。がんを宣告され眠れない日が続き、自分なりに覚悟を決め、仕事を残すまいということと、遺書を書こうということを決めました。幸い無事に手術が終わり退院する時に主治医が言われました。「あなたはもう今までのあなたではない。生まれ変わったと思ってください。今までどおりにはいかないけれど、新たなスタートだと思ってください」と。

あれから9年、ちょうど中学を卒業した年になりました。当時「ズームイン朝」というTV番組に出演していましたが、TVの仕事はもうやめようと思いました。家族も激しく反対しましたが、主治医の一言が非常に大きかったです。16キロも痩せたので顔はこけ、声に張りもない、そう言うと先生は「あなたを知る人は一日目は驚くが二日目からは慣れる、あなたを知らない人はそういうものだと思う。何の心配もいらない」と。病気をし、死に直面すると人の温かみや家族の大切さを知ります。周りの人に配慮してきたのかと考えるようにもなる。そんな時に主治医は「常に前向きに生きろ」と教えてくれた。私はこのことを何ものにも変えがたいと、そう思っています。

三人目の師は母親です。母は16年前に亡くなりました。30年間一人暮らしをしながら81歳の生涯を閉じました。私の実家は電車が2、3時間に1本、バスも通っていない過疎の村です。私は60歳の定年を向かえ、特別編集委員という職を設けてもらい幸いにも仕事を続けていますが、定年を迎えると「この先どう生きていくか」を考えるようになる。その時に自分の母の人生がなんだったのかをこれから先ずっと考え続けなければならないのだろうと思いました。

我家は6人兄弟で、父は私が大学1年の時に亡くなりました。小学校の校長で亡くなりましたが、給料は非常に安かった。私が読売新聞社に就職し、二年目にはもう父の給料を越える額を貰いました。それほど教師の給料は安かったのです。教師の給料が上がったのは田中角栄さんが総理大臣になった時です。彼は「先生に金の心配をさせてはならない」と言いました。偉かったと思います。ですが、それは父が亡くなって何年もしてからの事でした。乏しい給料で、私たち兄弟を東京と京都の大学に出してくれました。実家を離れて大学に通うのは大変な事です。

母は学校の先生でしたが結婚してしばらくして退職しました。朝早くから7つの弁当を作り、皆を送り出し、色々な仕事をしながら私たちを育ててくれました。私は母が布団で寝ている姿を一度も見たことがありません。

その母が16年前、脳梗塞で倒れたと連絡があり駆けつけました。意識が戻らない母の病室で兄弟は大論争になりました。母の最期に、孫達をはじめ皆さんに会わせるかどうかで議論になったのです。母が、「最期の醜い姿は孫といえども見せたくない」と言っていたからです。私は強硬に反対しました。「母さんはそう言ったかもしれないが、なにも醜くなんかない。最期のお別れをさせるべきだ」と反対しました。決定権は長兄にありますが、長兄は皆さんに会ってもらおうと言いました。私は自分の決断が正しかったと今でも信じています。

お別れに来て下さったなかに救急隊員の方がいました。この方が私たちに会うなり「すみませんでした」と謝るんです。どうしてか?と聞くと、母が「私はきっと一人で倒れているところを発見されるでしょう。救急車のお世話になると思いますが、秋田市内の病院に運んでください」とお願いしていたとおっしゃる。秋田市までは車で一時間かかります。電車も数本しかない。秋田市には、長兄が県庁に勤めています。近くの病院に運ばれますと、兄が病院に来るため県庁を休まなければならないのを恐れたんです。だから秋田市の病院に運んで欲しいと言っていたのです。実際に発見されたのは倒れてから時間が経っていたので、近くの病院に運ぶしか手立てが無かった、そう言って救急隊員の方は謝られたのです。とんでもないと、私たちはむしろお礼を言いました。部屋のふすまの至る所が破れていて、母が助けを呼ぼうとした爪あとだろうと思いました。ふすまを開けると風呂敷に包まれた洗面用具がおいてありました。

私たちが正月と盆に帰ると母はいつも「平日には死ねない」と言っていました。どうして?と聞くと、平日に死ぬとその先の初七日、三十五日、四十九日が全部平日になる。そうすると会社を休まなくちゃいけないよ?と。もう良いから、と言うと「神様にお祈りすると神様はちゃんと聞き届けてくださる」と言っていました。母が倒れているところを発見されたのは火曜日の夕方です。実際に亡くなったのは日曜日の夕方4時過ぎでした。私は家に連れ帰った母の布団に入りながら「母さんよくやったね」と言いました。遺書が残されていました。「いついかなる時に死のうとも私には悔いも未練も無い。皆に大事にされ、幸せすぎて勿体ない位の一生でした」と書いてありました。私たちには悔いが残っています。そばにいれば死ぬ事はなかったと悔いが残っています。私は何度秋田に帰って母と一緒に住もうと思ったか分かりません。お盆に帰り、父の墓参りをするたびに、高台にある墓に行き眼下の一面に広がる黄色く染まった田んぼを見るたびに「あぁ、このままここにいようかな」と思いました。しかしそれは出来ない。わが町には勤め先が無い。家族を養えない。だから私は今でも東京に出稼ぎにきていると思っています。いつかは帰ろうと思っています。

全国にはこういう一人暮らしの老人が沢山います。子供の幸せを願い、立身出世を願いながら一人でじっと耐えているのですね。私はそれに勝る痛みがあるのだろうかと、それに対する思いやりのある政治が行われているのだろうか?と考えます。断じて行われていない、そう思います。母が生前に書き溜めた手紙などのなかから、地元の新聞に投稿した記事の写しが出てきました。秋田県で最も福祉施設が整った市内で、一人暮らしの老人が亡くなって何日もたった姿で見つかった、という記事に対して怒りをこめて母が書いたものでした。福祉は建物ではなく心だ、と母は書いていました。私は実感を持ってそう思います。心が足りなくなっている。政治にも心が足りなくなっている。何故足りないのか?それはここ何代かの総理大臣を見れば分かります。みんな選挙区を持っていますが、そこの生まれでは無い。皆、東京のど真ん中で産まれ、東京のど真ん中で育っているのです。だから地方で一人暮らしている老人の孤独の深さが分かるはずがない。政治のみならず、そういう心が失われつつあると思います。

去年、私は辛い体験をしました。私が通った小学校が閉校するという事で、閉校式がありました。125年の歴史の幕を閉じましたが、私はそこを図書館にして私の蔵書を寄付しようと考え、今月その贈呈式が秋田市内であります。閉校式には歴代の校長先生がいらっしゃって、口々に「お母さんには毎日のようにお花をいただいていました」とおっしゃいました。私はいたたまれない気持ちになりました。庭で花が咲く、畑で花が咲く、それをあげる子供は近くにいない。せめてもと思い、小学校や保育園に届けていたのでしょう。どんな気持ちだったのだろう、と痛切に思いました。

もうひとつの経験は、読売新聞社に入社し5年間浜松で修行しましたが、先日その時の支局長の娘さんがお医者さんになり、その病院の30周年のお祝いで講演を頼まれました。その時のことです。講演が終わった時に、支局長の奥さんから「当時、お母さんからはしょっちゅうお手紙や贈りものをいただいていました」と言われました。その事を私は40年間まったく知りませんでした。親というのはそういうものなのです。私はそういう人達で日本という国が成り立ってきたと思っています。そういう人達を大事にする政治が行わなければいけないと思っています。

がんになってテレビを一度離れ、編集委員になってコラムを書きましたが、それを本にしました。「範は歴史にあり」という本です。この本は母に贈ったものですが、後書きに大学を卒業するときに母に言われた三つの事が書いてあります。一つ目は「何事にも手を抜いてはならない。常に全力であたれ」ということです。二つ目は「傲慢になってはいけない。常に謙虚であれ」ということです。それでなくても我々の仕事は傲慢です。自分の事を棚にあげて人の事を批判しています。この仕事の宿命ですが、ならばせめて批判するときは、自分が批判される立場に立って「もっともだ」と思うような批判をしようと心に決めています。出来ているかは分かりませんが、いつもそうありたいと思っています。三つ目は「どんな人でも嫌いになることはない。嫌だと思ったら、その人の中に自分より優れている所を見つけよ」と言うのです。必ず優れているものがあるものです。見つけたら、もうその人を嫌いになることはなくなります。

言われてから40年経ちます。私は一日としてこの言葉を忘れた事はありません。「お天道さんが見ている」という言葉があります。どこにいて何をしていても、いつも見られていると思っています。酔って帰ることがあります。玄関を開けると家内が立っています。一言「お母さんが生きていたら何と言うでしょうか」。酔いがいっぺんに醒めます。私にとっての「お天道さん」は母です。

皆さんもどうかお父さんお母さん、家族を大切にしてください。愛国心という言葉がありますが、身近な人を愛せずに国を愛することはできない、と私は思います。

約束の一時間が過ぎました。今日は私の64年の生涯のかけがえの無い人の話しをしました。皆さんにもいるでしょう。どうかそういう人を大切にして欲しいと思います。ありがとうございました。

質問:批判するときは、自分の考えでするのですか?
答え:人を批判することは自分の全てを問われているという事です。批判する時は当然ながら相手の全てを知る努力をしなければいけないし、それなりの覚悟をもって批判しなければいけない。

追:ジャーナリストの条件についてお話しします。
「健全な相対主義」
どちらかが100%正しいなどはありえません。だから、それぞれの理屈や存在を認めあうということです。

「適度の懐疑力」
待てよと自分に疑いを抱くことが必要です。

「鳥の目と虫の目」
大きく見る目と地べたでしっかり近くのものを見る目の両方を持つ。時代が、社会全体がどんな状況にあるかを見つめるとともに、その末端にいる人々がどんな気持ちでいるかを見つめるということです。

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